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【インタビュー】西野公平さん

西野公平_色紙
西野さんは、デジタルマンガにいち早く着手され、マンガの可能性にチャレンジされているお話はとても興味深かったです。マンガ家だからこそ、可能な表現であったり、発想がクリエイティブで、私には到底思いつく事のできない発想でした。そんなチャレンジングなことに取り組んでいる西野さんのこれまでのマンガ界、そしてこれからのマンガ界への込められた想いを聞かせて頂く事ができました。デビュー時のエピソードなど、西野さんという人物像がとてもよく伝わってくるインタビューでした!

マンガへの目覚め

木村忠夫 先生は北海道生まれですか?
西野公平 いや~、僕には故郷がないのですよ。確かに生まれたのは札幌でしたけれども、
父が銀行員をしていた関係で、2年ごとに地方と中央を赴任したので、全国を行ったり来たりだったのです。
木村忠夫 でもそんなに全国各地に住んでいて、よくマンガをゆっくり描けましたね。
西野公平 考えてみればそうですよね。東京、大阪、名古屋、神戸など大都市を転々としていたので、
マンガが身近にあったせいかもしれません。当時は、マンガは僕らの憧れ的な存在でしたから、
ノートの隅にマンガを描いていてよく怒られた記憶があります。
木村忠夫 子供のころから絵を描くのが好きだったのですか?
西野公平 絵を描く事は嫌いではなかったのですが、転勤先のどこの学校へ行っても絵の評価は低かったですね。
どこのクラスでも絵がうまいやつがいるんですよ…
木村忠夫 いつごろからマンガへの道に目覚めたのですか。
西野公平 描くのは好きでしたから、時々、『中一コース』という雑誌に、
一コママンガを投稿して掲載された事がありましたね。
でも僕らの時代は「マンガなんか読んでいたらバカになる!」って言われた時代でしたから、
マンガ家になろうなんて夢にも思いませんでしたよ。
木村忠夫 その当時からつけペンで描いていたのですか?
西野公平 初めてペンで描いたのは中学2年頃でしたね。石ノ森章太郎先生の『マンガ家入門』という本を読んで、
見よう見まねで自己流で描いていました。
木村忠夫 当然、マンガ雑誌も良く読んでいた…
西野公平 父親がよく「鉄腕アトム」や「鉄人28号」を買ってきていましたからね。
マンガ本には不自由しませんでしたね。

思い出の作品

西野公平1
木村忠夫 思い出に残る作品は?
西野公平 一番衝撃を受けたのは、永井豪先生の作品でした。
それまでは手塚治虫、石ノ森章太郎という大作家の作品を読んで
楽しんでいたのんですが、永井先生の≪ハレンチ学園≫等の一連の作品を見て、
「裸だろうが、人が首を切られようが、
血しぶきが出ようが構わないマンガはすげ~面白い」って思ってしまったんです。
今では当たり前ですが、当時は衝撃的でした。
今のアニメでもマンガでもそうですが、若い人たちは、
血が出たり、反社会的な作品が好きになる時代があるんですよね。
それが僕たちの時代では永井先生の作品じゃなかったのかなぁ~と思ってます。
つまり、“敵が神様で、自分が悪魔でもかまわないし、それがかっこいい“っていう事になるのかもしれませんね。
いわゆる『中二病』みたいな時間があったんです。
[中二病・・・中学二年生くらいの思春期の少年少女にありがちな、
自己意識過剰なコンプレックスから発する一部の言動傾向の俗語。
実際に治療を要する医学的な意味の病気とか精神疾患とは無関係]
木村忠夫 マンガ家の中ではよくこの『中二病』ということを気になっている人がいますよね。
西野公平 僕はね、マンガは世界中に色々なメディアがあると思っているんですが、
中二病にちゃんと向かい合ったメディアは少ないんじゃないかと思っているんですよ。
つまり10代の子供たちが、本来持っている悪魔的なというか…アメリカの音楽で言うと『ヘビーメタル』的なというか、
とにかく破壊しつくしていい曲なんてあまり聞きたくないみたいな…それと同じ事がマンガでもあると思うんですよ。
10代20代の人たちが「俺はこれがかっこいいと思う!」
「私はこういう恋愛がしたい!」って言う事を描いているんです。
こんなメディアはマンガ以外にはないのではないでしょうか。
まあ、このような作品を見る機会があるのは日本だけかもしれませんけれどもね。
木村忠夫 各国環境が異なるのでそうかもしれませんね。
西野公平 そこが一番違うのかもしれませんね。
日本のマンガが世界に広まっているのも、世界中の中二病の人たちが「ああ、そうなんだよ。これいいんだよね」って
思ったんじゃないかと思いますよ。

最初は少女マンガを

木村忠夫 高校や大学でもマンガ研究会などで友達たちと活動していたのですか?
西野公平 僕は全然駄目なんですよ、
漫研とかは大嫌いで僕は高校を卒業して東京造形大学に入学したのですが、
大学では映像学科に入ったので、写真を撮ったり、8ミリカメラで映画を撮ったりしていたんです。
その合間にマンガも描いてはいたんですが、映像作りの方が楽しかったですね。
仲間はヨーロッパのアート系映画を撮っているのに、僕だけがドラマを撮っていたんですよ。(笑)
模型で特撮をやったりしてね、楽しかったなあ~。
木村忠夫 将来、映像の方面に進むのが普通の感じですよね。
西野公平 僕もそう思います。でも映画関係の色々な事が解ってきたんです。
それは「飲み会で監督にちゃんと付き合わないと出世できない」とか、
「助監督として長い間監督の下について、監督が認めないとメガホンがもてない」など聞いたんです。
「そんなんじゃ、やっていられねえ」っと思いましてね、
「マンガの方が一人で監督、脚本、照明などが自由にできるのでずっといい」ってことで、
映像をやりながらマンガもシコシコと描いて投稿したんです。
木村忠夫 どんなマンガを描いたのですか?
西野公平 最初は少女マンガが多かったですね。
木村忠夫 結果は?
西野公平 当時の少女マンガは、萩尾望都、竹宮惠子さんなんかが出始めた頃なんです。
その頃のマニアは少年マンガがつまらなくなってきたので、少女マンガの方に移行し始めていたんですよ。
でも私の投稿作品はレベルが低かったです。
木村忠夫 それで今度は少年マンガの方に投稿されたのですか?
西野公平 結果的には大学在学中に描いた作品が認められてデビューしました。
大学を一年間休学して≪月刊少年サンデー≫で番長物の連載をさせていただきました。
でもねぇ、連載されたのは嬉しいんだけれども、担当編集者の意向よりも、
自分の好みのSFっぽい方に話を絡ませて描いてしまったので、よく編集者とぶつかってしまって、
結局はうまくいかなくなって一年ぐらいで終わりました。
木村忠夫 大学に戻って卒業する頃になると、将来に不安ではありませんでしたか?
西野公平 一瞬、「やばい」とは思ったんですが、その頃には映画関係はあきらめて、
マンガで飯を食おうと思っていましたから、色々な出版社の賞に応募していたんです。
結果的にはまずまずの反応だったのでマンガ界に入ったのです。

少年サンデーからデビュー!

西野公平2
木村忠夫 デビューは?
西野公平 大学1年の時に、小学館の『少年サンデー』の
《小学館コミック大賞》で佳作を貰って、
1977年『週刊少年サンデー』でデビューしました。
木村忠夫 何歳でしたか?
西野公平 22歳の時です。
木村忠夫 先生が2002年ぐらいの時に、
大賞賞金5000万円の新潮社が発行した『週刊コミックパンチ』「第1回世界読者大賞」で、
『エンカウンター~遭遇~』の作品で大賞を受賞されましたよね。あれには驚きました。
西野公平 賞金5000万円なんて画期的でしたよね、
当時のマンガ賞の賞金はせいぜい100万円ぐらいでしたからね。
作品よりも5000万円の賞金で大きな話題になってしまいました。あの作品は家内の《西野つぐみ》と一緒に合作して、
《木ノ花さくや》のペンネームで描いたのです。
木村忠夫 ああ、それで受賞の発表があった時に《木ノ花さくや》という作家の名前が知らなかったので
「凄い作家があらわれたなぁ~」と思いましたよ。
西野公平 普通、合作だと原作と作画というように別れますよね。
でも私たちは、企画立案、脚本、絵コンテ、作画など、すべての段階で協力し合い作品を作ったのです。
だから夫婦連名にはしないで、新しいペンネームにしたのです。
木村忠夫 それにしてもずいぶんユニークなペンネームですね。由来は?
西野公平 日本神話に登場してくる木花咲耶姫からなのですが、『エンカウンター~遭遇~』のテーマとの絡みで
つけた名前だったのです。
木村忠夫 その後は順調な作家活動をされたのですか?
西野公平 賞金は確かに嬉しいことだけど、僕たちにとっては、副賞として最低1年間、
週刊でマンガを描ける保証がついていたので、そちらの方がはるかに嬉しかったですね。
「ああこれで作品を腰を据えてじっくりと描ける」という喜びです。
だってその前までは、大手の出版社でも描いていたんだけれども、読者アンケートでもそんなに悪くなかったのに、
編集長が変わったから連載をストップすると切られたりした事があったので、
一年間腰を据えてちゃんと描けるという保証は、
最高のプレゼントになったのです。
でもねぇ~、第1回目の連載で扉がカラーじゃなかったんですよ。
あれにはショックでした。
当然、大きな話題になり、商売上でも巻頭カラーで連載開始というのが、読者を牽き付ける事になりますし、
私も気合が入るわけですよ。それがなかったんです。当然するものと思っていましたからねぇ。
でも結局、一応一年かは続けましたけれどもね。いい事も嫌なこともあった思い出深い大賞受賞でした。

漫画教育

西野公平5
木村忠夫 現在は京都にある京都精華大学で漫画をご指導されていますよね。
生徒たちの漫画にかける情熱はいかがですか。
西野公平 マンガ学科は入学希望者が多く、競争率が高いですね。
だから入学者はほとんどがプロ漫画家志望者ばかりです。
やる気満々の生徒が多いので、
各出版社の新人賞に応募してどんどんデビューしてますよ。
面白い現象ですよね、
だって昔は編集者が新人を育てたのですが、
今は大学がその機能を担いつつあるんですから。
木村忠夫 昔とずいぶん変わりましたね。
編集者が新人を育て上げるだけの編集能力を持っていなければ、
面白い漫画が誕生しませんよね。
西野公平 僕も同感です。売り上げ至上主義の現在のやり方は、
そこに人間としての裁量の余地がなくなっているんです。
昔伝説を作った編集者の方々のように
「あの子は絶対に売れるから続けて連載をさせなさい」と
いうような無茶を言える状況ではなくなっているわけで、
当然そんな状況では編集者自身も育たなくなっていると思うんです。
もちろん漫画業界が縮小しているのでやむを得ない面もあるのだけれど…。
先ほども言ったように漫画は「個人のセンス」が色濃く出ることで成功してきたメディアです。
それを育てて行くには編集者にも「個人のセンスを発揮できる状況」を作らないと、
どんどん漫画を売るノウハウが失われていくと思います。
木村忠夫 それは私も感じています。
あまりにもサラリーマン的というか…私は漫画家は職人と思っているんですよ。
編集者も一種の編集職人というか、こだわりが必要ですよね。
西野公平 このような状態が今後も続いていってしまうと、漫画の業界も心配になります。
他の業界の方とお話しすることも多いのですが、
この「作家を育てる」「作品を育てる」という発想は他の業界の方にはまったく理解出来ない場合が多いです。
たとえばIT業界の方だと「漫画はYouTubeのようにとにかくサイトにたくさん載っけて、
人気投票の仕組みを作っておけば勝手にヒット作は出来る」といった発想をしがちです。
でも実際にはヒット作も人気作家も生み出してはいませんよね?
この「作家を育てる」「作品を育てる」というとても特殊な…でも大事なノウハウが残っているうちに、
それをきちんと生かして継承していく方法を考えないと、漫画業界は活力を失うと思います。
木村忠夫 そう考えると面白いですね。漫画を本来ある形で新しい時代に適応させていけば、
漫画を基本にして色々な世界が花を咲かせますよね。
西野公平 これからデジタルが加速してくると、ますます紙の漫画が駄目になるかもしれません。
でも駄目になる分、何か新しいものがきっと出てくると思います。
木村忠夫 京都精華大学でデジタル漫画を教えているのですか。
西野公平 そうですね。iPadのアプリを作る授業を昨年からやり始めましたし、
来年度からは学生たち全員がコンピューターとタブレットを買うようになります。
やはりコンピューターを使えば画材としても便利だし、
何よりpixiv【ピクシブ…インターネット上の画像投稿サイト】など
発表の場までネット上になってしまったので、もはやこれから漫画を目指す人はネットをやっていないと
商売にはならなくなると思います。
実際描くのもデジタルでやっている人が多いし、原稿を送るのもオンラインじゃないですか。
原稿依頼だってメールで来る時代ですからね。
もうネット上で自分のファンをどうやって増やしていくか、どうやって非難されないようにするか、
そしてそれをどのようにして稼ぎに結びつけるか・・・
というリアルな事まで教えないと食べていけない時代でもあるわけですよ。
木村忠夫 講師の方たちはデジタルに強いのですか。
西野公平 まだまだアナログ派が多いですね。
京都精華大学のストーリーマンガコースは基本的に商業出版社のマンガ家を目指す生徒がほとんどですから、
当然紙にペン、インクが基本です。
やはりいくらデジタル時代になっても漫画の基本はしっかりと身につけなくてはいけませんからね。
でも2013年度から新設されるキャラクターデザインコースは、デジタルでの作画をメインに教えていくつもりです。
木村忠夫 先生が生徒に強調している事はどのようなことですか。
西野公平 あんまりないですね。好きなように描かせていますよ。
人に言われて描くようじゃ駄目だと僕は思っているんです。さっきの中二病の話じゃないけれど、
なるべく自分がかっこいいと思うものを描くべきですし、
「大人が言っている事なんか聞かなくてもいいから、どんどん描きなさい」というのが、僕のポリシーなんです。
木村忠夫 そういっても描かない子が多いじゃないのですか。
西野公平 そうなんですよ。若い子は苦手意識が出来ると萎縮してしまうんです。
それを放っておくと益々描かなくなってしまう。
だからどうやって生徒のモチベーションを引き出すかがカギだと考えています。
本来漫画が描くのが好きで京都精華大学に入ったのですから、
その初心…マンガを描いていると楽しい!…という気持ちを忘れないようにすることが重要だと思います。

デジタルマンガ

西野公平3
木村忠夫 西野先生は漫画家の中でも最も早くデジタルマンガを手掛けましたよね。
西野公平 もうかれこれ15年ぐらい前になるのかなぁ~
木村忠夫 マンガ家の中ではよくこの『中二病』ということを
気になっている人がいますよね。
西野公平 僕はね、マンガは世界中に色々なメディアがあると思っているんですが、
中二病にちゃんと向かい合ったメディアは
少ないんじゃないかと思っているんですよ。
つまり10代の子供たちが、本来持っている悪魔的なというか…
アメリカの音楽で言うと『ヘビーメタル』的なというか、
とにかく破壊しつくしていい曲なんてあまり聞きたくないみたいな・・・
それと同じ事がマンガでもあると思うんですよ。
10代20代の人たちが「俺はこれがかっこいいと思う!」
「私はこういう恋愛がしたい!」って言う事を描いているんです。
こんなメディアはマンガ以外にはないのではないでしょうか。
まあ、このような作品を見る機会があるのは
日本だけかもしれませんけれどもね。
木村忠夫 当時は全然普及してなかったのですから、まさに先駆けですよ。
西野公平 いやいや~ 第二世代か第三世代ですよ。遅かったかもしれません。
木村忠夫 じゃあ今の人たちは、第四か、第五世代になりますよね。
西野公平 そうですね。でもこの世界は早いから、今は第十か、
第二十世代ぐらいまで行っているかもしれませんね。(笑)
木村忠夫 やっぱり先駆けですよ。デジタルとのきっかけというか出会いはいつごろでしたか。
西野公平 最初はデジタルの事なんか全然知りませんでしたが、インターネットが出始めた頃に、
漫画家の仲間たちがMacを買ってホームページをやっていたのを見て刺激されたんです。
で、いざ入れてみたら奥さんが「インターネットは世界につながってるんだから、
英語のページもやらないと意味ないわよ」って言うんですよ。
でも僕は英語が駄目、じゃ誰がやるんだという事になったわけなんですが、
結局自分以外誰もいない…それでしかたなく英会話学校に通い始めました。教室に自分の漫画を持って行き、
外国人の英語講師と一緒に台詞を翻訳したんです。
ちょっと大変だったけれども、漫画を英語でアップして流したら、
世界の漫画好きの人からアクセスされるようになりました。
アメリカ、カナダ、中国、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、ロシア、ボスニアまで!
そして読者の中から翻訳のボランティアを申し出る人たちがいて、
最終的には9ヶ国語で漫画を読めるサイトになりました。
面白かったというよりも驚きました。翻訳者は漫画好きな各国のボランティアですからね。
漫画という趣味を通じて世界中の人たちの善意とお付き合いできた…そんな貴重な体験でした。
木村忠夫 まさにインターネットの世界ならではですね。
翻訳するのもボランティアでやってくれる人が出てきたとは、すごい事ですね。
それだけ日本の漫画が世界に広がっているということにもなりますね。
西野公平 それまでは実感していなかったんですが、そのとおりですよ。
「英語だけで漫画をアップするなんて!何でフランス語が無いんだ。
翻訳者がいなければ僕が無料でやってあげる!」と
カナダ人からメールが来てまずフランス語のバージョンができ、その後もロシア語やスウェーデン語と、
あっという間に9ヶ国語になってしまったんです。
木村忠夫 やっぱり先駆者ですよ。
西野公平 当時の少女マンガは、萩尾望都、竹宮惠子さんなんかが出始めた頃なんです。
その頃のマニアは少年マンガがつまらなくなってきたので、少女マンガの方に移行し始めていたんですよ。
でも私の投稿作品はレベルが低かったです。
木村忠夫 それで今度は少年マンガの方に投稿されたのですか?
西野公平 自然とそのように広がったという感じだと思います。
当時はちゃんとした英語ページをやってた漫画家が少なかったですから。世界の人たちとメール交換もしましたよ。
よく「漫画本が手に入らないのでどうしたらよいでしょうか」なんてメールが来て、送って上げたこともありました。
海外では「有名ホームページの紹介本」で何回か紹介されたこともありましたね。
木村忠夫 有料サイトでやるとビジネスとして成功したのではないのですか。(笑)
西野公平 そんなつもりは全くなかったですね。
自分の作品をより大勢の人に読んでもらいたいという意志だけだったです。
当時は完全無料という事もあったけれども、世界中の人が漫画情報に飢えていたんだと思いますよ。
木村忠夫 でもそのころからデジタルの漫画は伸びそうだと感じましたか。
西野公平 う~ん、何となくね。
当時の事だけど、僕が高い金を出して、Macを通信用に一台買ったわけですよ。
そしたら奥さんが「これでどうやってテレビを見るの?」って言われたんです。
唖然としましたけれども、
その時に、「これから先、テレビとコンピュータは普通の人にとっては同一視されてしまうんだ。
Macに映しだされた僕の漫画はテレビと同じ感覚で見られる…
それなら作品はカラーを付けなくては駄目だし、動かなきゃ駄目だし、音も必要になってくる」と思ったんです。
丁度その頃にフラッシュの技術が出始めたので、そちらの方に走っていたって言う感じですかねぇ~。
木村忠夫 でも技術に興味を持たないと、
どんどん新しく導入されていく機能についていかれなかったのではないですか。
西野公平 やはり大学時代に映画作りに興味があつたからかもしれませんね。
それとアニメと漫画が好きだったという事も大きいと思います。
だから動く演出、音の演出を付けるのはすごく楽しい作業でした。
それは今も同じです。楽しいから一生懸命技術を覚えるし、それをページで公開するとすぐに反応が出ますよね。
漫画もそうだけれども、やっぱり何の反応もないとやる気が失せますからね。
いろんなところからメールが来たり、アクセス数も増えたりすると、ますます楽しくなってくるんですよ。
どんどん動かして、どんどん知り合いの漫画家さんの作品も翻訳して、
作品数を増やしていき、徐々に大規模なサイトになっていきました。
木村忠夫 私も今でも覚えていますが、大分昔にMacの展示会があり見に行ったのですが、
会場は若い人でいっぱい。
無知だったので「何でリンゴをかじったマークがこんなに人気があるんだ」と思いましたよ。(笑)
今後の課題としては、やはりカラー化ですか。 西野・見る人の要求ですもんね。
でも新しいスタイルのマンガを作るためにはだんだん手間が増えてくるし、テクニックも高度になってきますよね。
ライバルはテレビですから(笑)、どこまでやるかが難しい。
でもアニメだと会社組織で本格的にビジネスとしてやらないと維持できないし、とても一人の手では無理ですよね、
でも漫画ならば、個人企業と同じだからアニメーション、
カラーリングなどの技術を習得すれば早く製作できる利点もあるのでしょう。
西野公平 一概には言えないけれども、基本的にはそうかもしれません。
今はさまざまなアプリケーションが出ているので個人で作る事自体は可能ですよね。
でも肝心なのは、作品をどのようにしたら面白く作れるか…です。
プロとしての見せ方がわかっている作り手がまだまだ少ないんです。
だから僕は印刷された漫画をそのまま配信するのはビジネスマンにお任せすればいいと思っています。
僕の興味は「今どんな楽しいものが作れるか」やはりこれです。
それを考えるのが楽しいです。個人レベルでどこまでアニメに近づけるか、それを超えられるかです。
木村忠夫 やはり先生は漫画家だからですよ。
作る楽しみと漫画の面白さ…ここをこうやると読者を楽しませられるよね、ですよ。
西野公平 それば絶対にあると思います。
自分が漫画を描いてきたから絶えず読者との勝負を考えてきた。
読者をうならせたいって!こんなすごいのが出来たぞ、どうだっ!ってね。
漫画家の本性かもしれません。どうしても一人ですべてを作りたがってしまうって感じです。

サイバーマンガ

西野公平4
木村忠夫 これから一番やりたい事は…
西野公平 「サイバーマンガ」です。
木村忠夫 新しい漫画ですね。
西野公平 ぜひサイト(cybermanga.com)をご覧になってください。
簡単に言うと、声や音楽、インタラクティブ性を持った、
iPad上で動く新しいマンガアプリです。
そしてそのアプリを作るために専用のオーサリングソフト
【作成ソフト】を個人的に開発しました。
それがサイバーマンガ・スタジオです。
画像や音、タップによる進行などをタイムラインでコントロールして作品を制作し、
iPadやiPhoneに無線LANを通じてその作品を送る…AppStoreで売るためのアプリビルド用のデーターを書き出す…
などの機能をもった制作用のソフトです。せっかくソフトを開発したので、
できるだけ多くの漫画家の皆様に使ってもらって、
『自己責任で世界中に向けて、新しい価値のある漫画を配信できる環境』を拡大させたいと思ってるんです。
今はアンドロイドも視野に入れているのですが、そのためには新しいバージョンを開発しなければなりません。
木村忠夫 まさに先端を行っていますね。すごく興味があります。
読者が興味をしめして食い付くと思いますよ。
西野公平 だといいですね。
先ほども言いましたが、IT関係の人は「YouTubeでいいや」って思っている人が多いんです。
でもそれでは作家や作品は育たない。誰かがクオリティーをコントロールしないとダメなんです。
“誰でも投稿していいですよ”って言う漫画サイトがうまくいかなった原因はそこです。
漫画は実際プロとアマの差がすごく大きい。それをきちんと見立てて、
育てていくノウハウを持った人や会社が出てくるかどうか…そこがすごく重要だと思います。
木村忠夫 私も同感です。
やはり漫画だったら何でもいいという考えは危険ですよね。
デジタルマンガでも、内容で読者にどのように面白がせるかという要素が必要だと思います。
西野公平 だから僕は今、ツールを武器にしてそれをやろうとしているんですよ。
でも開発費がかかるんです。環境が出来上がってしまえば動くのは早いと思いますけど…
サイバーマンガ・スタジオは一枚ずつの絵をただタップで順番に表示していく紙芝居のような構成でしたら、
画像さえ用意すればほんの10分か15分あれば作れるソフトです。
そしてそんな紙芝居のような構成でも、
漫画としてしっかり作られていれば読者を面白がらせることは出来ます。
ですから早くリリースしたいと思ってるんですよ。
今は個人でやっているのでどうしても時間がかかっていますが、
あと1回バージョンアップできる費用があればすぐにも公開できるはずです。
もし新しい漫画表現にご興味がある会社さんがありましたら、
ぜひ資金提供をお願いします!きっと大ヒットしますよ〜!(笑)
木村忠夫 クオリティーコントロールってキーワードになる気がするんですが…
西野公平 最終的には骨董品の鑑定と同じで、どうやって売れるものを目利きできるか…にかかっています。
数字で表されるものではないのが難しいところですね。
でもね、僕自身はたいした事が出来ないと知っているので…つまり僕はもうロートルだから、
僕が活躍するようじゃデジタル漫画界も駄目なんですよ。
若い人たちが出てこないとね…さっき言ったように
「中二病」のまっただ中にいる若い子の中からヒット作が出てこなければダメです。
四コマでもいいんです。主戦場はこっちなんですよ。
木村忠夫 実は私も同じ思いなんですよ。
時々中国で≪中国が漫画で発展するのには…≫で講演させていただくのですが,
その内容の一つとして、「アニメと漫画の中間を新しい漫画としてやってください」ってい言っているんです。
だって、日本のアニメは同じアニメでもアメリカのディズニー作品と異なりますよね。
これは手塚治虫が漫画家になる前に何回もディズニーアニメを見て、
自ら日本初の独特の手法でアニメを作っていったわけです。
それが『鉄腕アトム』なのですが、話の作り方や制作方法なんかは、
完全に漫画の手法を取り入れておりますよね。
それが今ではジャパンアニメとして世界に通用しているわけです。
現在の漫画もフラッシュ技能使ったり、音や声優を入れたりしてやれば、違う味の作品が出来るはず、
それもコストはアニメの10分の1ぐらいで済むんです。
だから中国では「低コストで面白い漫画アニメができるぞ」ってね。
でもそれをコーディネートする人やプロデゥースする人が大きなポイントになるんですよね。
西野先生がすでに日本で実現化されているとは驚きました。
僕は日本では色々な環境が複雑なので無理だろうと思っていたのですが…
西野公平 やるっきゃないですもんね。

デジタルマンガの未来

木村忠夫 デジタル漫画界の先を予想するのは難しいことかもしれませんが、肌で感じるのはどのようなことですか。
西野公平 近未来の事はわからないけれども、人の暮らしがデジタルの普及によって変化してきていますよね。
だから人の趣味指向も変わってきています。だからこそ新しい事をやれる時代かもしれないと思っています。
先ほども言ったようにサイバーマンガのような
「ネット時代、モバイルの時代に適応したマンガ」を作れる若い人たちが出てきて、
マンガの未来を引っ張っていくと思います。
と言うより、なって欲しいですね…だって15年前にはYouTubeも初音ミクも、
こんなになるなんて思った人は一人もいなかっただろうから。
だから僕は長期的に漫画がデジタルの影響でどのように進化していくかに
思いを馳せて行動していこうと思います。
「若い子にはできない事を先を見ながら形にしていく」事が僕の仕事だと思うからです。
だからその意味では木村さんと近いですよね。
木村忠夫 色々未来に希望が持てるお話を有り難うございました。今後もご活躍ください。


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